さかの道

さかが駄文を書き連ねるようですよ。

独笑

別にドイツが笑っている訳ではない。俺が一人で笑っているのだ。

最近ブログを更新していなかったから更新するだけなのでいつも以上に下らないことを書き連ねる。



そもそも何で更新していなかったかがわからん。特に忙しくなかった気がする、とか言ってたら思い出した。行事の準備だった。それで更新できなかったのだ、と思ったが違う。それでも十一月の頭に更新できた筈だ。いや、テストだ。テストがあった。しかしそんな月始めからはどう考えても勉強していない。つまり空白の二週間だ。全く恐ろしいこともあるものだ。とか言ってたら今度こそ思い出した。面談期間だったのだ。午後は家に籠ってずっと弱虫ペダルを見ていた。恥ずかしながらまだ一期すら見終わっていなかったのだ。全くなんと有意義な一週間を過ごしていたのだテスト前の俺と来たら。そのせいで俺は今金欠だ。
何故金欠かといえば荒北くんのせいだ。中古グッズ屋でアクリルキーホルダーが三千円というハイパーインフレを起こしていた荒北くんである。個人的にそれと同じ種類のキーホルダーの坂道くんの値段が二百円だったのが心に来た。多分見間違いだと今では思っている。
ちなみに買ってない。高いし。
俺が文句を言いたいのは荒北くんのクリップ一つに千円近くの金をつぎ込んだクレーンゲームがあまりに下手な自分自身だ。正直二百円あれば取れたと思う。そしてトレーディング的なミニファイルで出てきた泉田は正直心底筋肉だった。巻ちゃんが出たところで諦めた。誰か欲しい人居るだろうか、巻ちゃんか泉田。荒北くんが出るまでやったら多分破産してたのでなんと言うか金を稼ぎたい。
だらだら書いていたらいつの間にか日記になっていた。つまりは荒北くんが素敵すぎて三者面談で俺の金が減る、そういうことだ。
さてここまで書いてきたが文章を見直したくない。書き終えたら見直す。多分。
話は変わるが今小説を書いている。
小説は難しい。

とにかく俺は勉強したくないだけなので、絵でも描けば良いのだ。今年の年賀状は印刷にするか、と思いつつ文章の推敲をして独り苦笑いした。

眼鏡

この頃世間の風潮が勉学に傾いている気がする。もう少し厳密に言うならば、自分の周りが、である。学生の本分とはすなわち勉強である、と決めたのは一体何処のどいつだ、と母に洩らしたところ、「私が決めた」とのことだった。案外伏兵は身近なところに潜んでいる。

 

勿論私とて勉強をしていないことはない。ただ、やりたくないのである。私はやりたくないことをやるのが大嫌いなのだ。つまり勉強が嫌いなのである。

 

さて、テキストブックの類を投げ捨てたは良いものの、今度は目の前に立ちはだかる実技の課題にぶつかる。実技は嫌いではない。ただ、物事には限度というものがある。ありていに言えば、たくさんあるのだ。課題がたくさんあるのだ。「えい、成績などくそくらえだ!」私は走り出した。

 

走り疲れ、私は歩きながら物思いに耽っていた。「そういえば、走るのだって体育の単元ではないか」「いやいやこうして思考するのさえガクジュツテキシコウの始まり」「まったく全てが勉学のことに思えてきたぞ」はてさて、所謂ノイローゼである。数字を見れば通知表、文字を見れば教科書、どうにも逃げ場がない。「かくなる上は」私は懐からコンパスを取り出し、それを自らの両目に突き刺さんとした。

 

ぐさり

 

私が聞いたのはそんな効果音ではなかった。もっと固い、カキィンという音。そう、コンパスと眼鏡のぶつかった音だ。私は常に眼鏡をかけている。お陰で危うく失明の憂き目にあうのを免れたのである。

「駄目ではないか、もっと自らを大切にしなくては」

私にはそんな眼鏡氏の声が聞こえた。「ありがとう」もうすっかり正気に戻った。早く家に帰らねば。

 

さて家に着いたは良いが、勉強はどうにもしたくない。ならばと私は読書をする。我が両眼の守護神がいればこそ、読書もできようものだ。

 

認識

例えば、今自らが所有している衿持。大切にしているもの。それらは本当に価値有るものか。あるいは、本当に有るものか。これは、主観で分かる問題ではない。
ならば例えば第三者としての自分。彼から見た彼。それらの存在を証明することはまた可能か。世界に自分以外の人が存在しているという事実は、存在しているのか。



とある思想。自分が確かに存在しているとして、自分の周囲は確かな存在なのか。自らの意思で動いているのは世界で自分独りで、周囲全てはプログラミングさたプログラムそのものでしか無いとしたら。
また他の思想。自分にとっての「青」が、他人にとっての「赤」である。自分の目も、他人の目も決しておかしい訳ではない。ただごく自然のものとしてそこにある。
それらを証明する術は何処にも無い。有るのは孤独だけと知る。



「私には人の心が分からない」私にも、あなたの心が分からない。当然、誰に分かる筈もない。



例えば認識の反転した世界。案外目の前の人間は異世界人かも知れない。それは突飛な思想などではない。自分が異世界から来ていたところで何の不思議もないのだ。



例えば友人であると自信を持って言える相手。大切な人。その瞳が映している物を知る術はない。何を考えているのか、本当のところでは掴めない。これも主観で分かる問題ではない。


それでも、確かにその人を愛しいのだ。それだけで、きっと構わないだろう。

機密

今自分の前に立ちはだかっている壁が何かと言えば当然宿題であると断言出来る訳だが、正直何故こんなことになっているのか自分にはさっぱり分からない。というより意味が分からない。



夏休みが一ヶ月以上あるとは到底思えない。それは常に感じている事である。日記なんぞをつけていようものなら、一日ばかりサボタージュしてしまうと何故か一週間程の空きが出る。私の日記を見ようものなら二週間程空いている。がらんどうの日記を前に、私は涙を流した。
そもそも本当に夏休みが一ヶ月以上あるのだとすれば、宿題が終わらないというのは、私がこんなに勉学に励んでいないというのは実に奇妙な話だ。仮にも学生という身分の我が身、本当ならバリバリ勉強をせずにいられない筈なのである。
埋まらない日記、終わらない宿題。元凶は全て夏休みの日数の錯覚だったのだ。この大いなる事実を前に、鳥肌が引く間も無い程の戦慄を覚えた。



しかし、それならば夏休みを長く見せかけようとする理由は何だ。ジバニ○ンのストラップを撫でつつ、私は思案する。ここまで明白な事実を今までに誰も指摘する者がいないということは、まさかそこには何か国家レベルの重要機密が隠されているのではないか。気付いた瞬間、全身から血の気が引いていった。そうだったのか、道理で…

「気付いてしまったようだな」

そんな声が聴こえたのと、私が意識を失ったのはほぼ同時だった。



「こ、ここは…」
私が目を覚ますと、見慣れない真っ白な天井がまず目に入った。その次に、今自分はベッドに寝かされているのだと分かる。目線を他の場所に向けると、白衣姿の人々が忙しなく動きまわっていた。一体ここは…
私が目を覚ましたのに気付いたのか、その内の一人がこちらに歩いてきた。
「やぁ。調子はどうだ?」
彼から話を聞いたところによると、ここは精神病院のような場所らしい。危険思想を持つ人や、妙な妄想に取り付かれた人。そういった人々を収容するそうだ。
「君は友人に連れられて来たんだね。彼、大層心配してたよ」
自分に友人が居た覚えは無いが、そうだったのか。どうも頭が上手く働かない。ここに来るまでの直前の記憶が無いので良く分からないが、そういうことなのだろう。

大分落ち着いた様だしもう家に帰っても大丈夫だよ、と言われ帰路につく。急いで帰らなければ、何しろたっぷりと宿題が残っている。夏休みは一ヶ月以上あるのに今の今までやらなかった自分が悪いのだから、頑張って終わらせなければならない。

正義

この世には大勢の人々が暮らしている。彼らの内誰も同じ姿形を所有している人は居ない。彼らの内誰も同じ価値観を所有している人は居ない。大勢、それこそ大勢の人々の中で誰も。この世には大勢の価値観が暮らしている。



この世に住む彼ら一人一人は一つ同じ正義の下暮らしている。どうあっても人類は画一化され得ない。価値観が違えば正義が違い、正義が違えば信仰が違う。一人一人は数える程の数しかない信仰に、しかし大勢がしがみついている。



正義のヒーローは巨悪を絶やす。その悪から見れば、ヒーローはやはり巨悪だ。喧嘩をして平行線の彼らは、遂に逢うことも無かった。各々が自ら一つの正義に従ったならば、世界は一人にとって悪意に満ちたものとなる。



愛の名の下に罪悪を犯す人が居る。愛が許されるならば、正義の名の下に罪悪は行われて然るべきなのだ。当人にとっての“良い人”は、どうしたって第三者から見れば“悪い人”。矛盾は抱える。弱音は吐かず、品行方正に。一人だけの美徳をどうして人に認めて貰えようか。



世界を恨めば人を嫌いになる。自分を恨めば自分を嫌いになる。どちらがより幸せかを考える事など出来ない。人は一人で生きていく。その中で文句一つ洩らせない誰かは、一人で死んで行くしかない。

人形

小さい頃、服屋が嫌いだった。服屋に行けばマネキンが居るからだ。プラスチックの白い肌。遠くを見つめる虚ろな眼。人間でないことは明らかに分かるのに、それでいて奇妙に人間と酷似したそれが、幼年時代の私には恐怖そのものとして映ったのである。



人間に似た人間以外のものは怖い。例えば人間型のロボット。人間に似せようとすればするほど、人間の目にはそれが不気味に見えるという、所謂「不気味の谷」。例えば小さな人形。日本人形やフランス人形は昔から怪談話で良く取り上げられるものだ。全く未知なる物は当然怖いが、既知である筈の物に存在する小さな異常も、えてして人を不安にさせる。



マネキンをずっと見続けていたら、ひょっとしたら動くのではないか。そんな考えに小さな私は取り付かれ、恐る恐るマネキンを見つめる。マネキンは当然動かない。いくら見つめていてもマネキンは眉一つ動かさないのだ。親の姿を見失い、私が半泣きになりつつマネキンの傍を離れても、マネキンは当然動かない。動く筈が無い。



今はマネキンは怖くないし、服屋は嫌いだが、それでもマネキンのそばを通ると、その存在感、生命を感じてしまう事がある。触れたら温かみがあるかも知れない。そう思ってそっと触れてみても、当然プラスチックの肌は冷たい。そして、マネキンを撫で回す私を見つめる周りの目線は、当然プラスチックより冷たいのだ。

大人

宿泊行事が終わったと思えばまたすぐテストだった。それも今日終わったのだが、誠に学生というのも忙しい。社会人の方が忙しいのだろうが、だとしたら大人になんかなりたくない。ずっと子供。俗に言うネバーランドの住人である。でもやっぱりそれはそれで嫌だ。斯くして皆大人になってゆくのである。

「大人」とは一体なんなのだろう。歳上。成人。職業を持っている人。近年はアダルトチルドレンなんて言葉も耳にするが、アダルトな雰囲気を漂わせる幼女であると考えると何だか素敵だ。くだらない。大人とはこういう事を言わない人のことを指すのかもしれない。

しかし「大人」が居るのであれば、その対義語が「子供」であるのはおかしな事だ。人は皆、産みの親から見れば「子供」ではないか。何歳になっても子供。死ぬまで子供。非常に深い。

つまり、「大人」という定義こそあれ、実際に「大人」である人など居ないのではないか。人が明日を求めてもそれが今日でしかないように、自分から見た「大人」も他の誰かから見ればまた「子供」なのだ。大人であろうとする子供。誰しもがきっとそうなのだろう。何言ってるの俺。

そうして考えてみれば、成長していくのも案外悪く無いのかもなんて思ったが、テレビのニュースを見てみれば不景気、不景気、不景気。駄目だ、やっぱり大人になんてなりたくない。

記念

一年経ちました。俺がブログを始めて一年。てかもう一年過ぎました。でも書いた記事は少ない。とっても少ない。どうせ見てる人殆ど居ないしぃ、ってのが本音ですが。空白期間があったのもありますし。大体書くことそんなにありますか?否、ありません。ブログってんだから普通に今日あった出来事でも書けよと。さながら母親に楽しかった事を目を輝かせつつ語る幼児の如く書けばどうだと。そう思うかも知れません。しかしどうでしょう。巷の中高生よろしく「ぁぃっまぢむかっく`ヘ´」だの「好きな人と席隣になったVv」だの書いてどうなると言うのでしょう。当然どうもならなさでは今まで俺が書いてきた記事も決して引けはとりませんが。ひたすらに惨めであると。とにかく残念であると言いたい。別にそういったことを書くこと自体をとやかく言っているのではなく、そんなことを書き綴ったところでリア友は誰も見ていないのだから意味が無い。意味が無いどころか迷惑な位であると。そう言いたい。色恋沙汰や悪口は内訳を多少なりとも知っている人が見て初めて存在意義を見出だすのではと思う訳です。俺は幸か不幸かどちらにも縁がありませんがね。

さてここまで思い付きで一気に書いてしまった。読み返す気も起きない。あんまり書いてないけど。やる気が起きない。春休み及び前後二週間程はまるでやる気が起きないから不思議だ。微妙な時期だからか。天候も妙に良いし。とにかく無気力になってしまう。
ぼちぼちテンション上げていかないとね。

これからはもう少し更新頻度上げて行きたいです!
これも毎回言ってる気がする…

充実

最近よく聞く言葉に「リア充」というのがある。
意味は「リアルが充実してる人」らしいがこの定義が非常に曖昧であると思う。以下考察。



友人「友達多いし自分リア充じゃね?」確かにこの友人に知人は多い。しかしこいつは異性と話すことを頑なにしない。家訓かよって位しない。
人によっては「彼氏もしくは彼女がいて初めてリア充」とする人もいる。
そういう人は大体私からすればリア充であるのだが。彼らの口癖は「あーリア充してぇー」である。
この2例から言えば「リア充」の意味には確固とした境界線というものは特に無いようである。



元々「リア充」という言葉は「ニート」の対義語だったそうだ。その意味付けから考えると外で全うな生活を送ることのできる時点ですべからく「リア充」であると言えそうだ。
また、「リア充氏ね」や「リア充爆発しろ」といったフレーズは「リア充」の出処の関係(2ch発)もあってか、元々は所謂オタクの人々が使っていた。それ故に「オタクの対義語」として「リア充」という単語が使われることもあったようだ。が、今や「リア充」は普通の若者言葉として広まっている。
オタク界隈やニート関連の定義では充分とは言えないだろう。



以上のことから、「リア充」とはその誕生以来紆余曲折を経て、今なお明らかな意味を持たずにいる単語であると考えるのが妥当なようである。各々が思った意味で、思った様に使うべき言葉なのである。少なくとも私はそう定義したい。そして、言語とは、日本語とはその様にあるべきでは無かろうか。



ここまでで前置きが終わった。と言っても本題と言うか只のお知らせなので上が本題だと考えて頂いて結構である。

お知らせ:学校行事のため25日まで居ません
まぁ行事有ろうと無かろうと居ない時ゃ居ないんで意味ないですけど。若者風に言うと「リア充してきまっす!!」って感じ。俺も若者ですけど。
青春を謳歌して来ます。おしまい

友人

今日はカラオケに行ってきました。
同級生と転校した友人と行きました。
4人で7時間近くぶっ通しで歌ったので非常に喉を痛めました。
とても楽しかったです。





絵日記の文章みたいになった



さて転校した友人は心臓が弱く喘息持ちで、夏には手術を受けねばならんそうである。
しかも手術を受ける日が私の誕生日だそうだ。
という重い話をされた。
嘘みたいな話ではあるが、本当に嘘だ。
というのが真に嘘であり、正しくは嘘であれば良いと思っているだけである。というか嘘だと思っている。
むしろ大抵の人は突然こんな話を聞かされたら嘘だと思うだろう。命が懸かっているとか言われても困るだろう。嘘だといいな。



友人は思い出の中にしろ現実での関わりにしろ、一生付き合っていくものだろう。
顔の思い出せない親友や名前の出てこない知り合い。そういう数々が人生を彩る。
当然別れや苦い思い出もあるのだろうが、その全てが自己を形成していく。
人との関わりは必要なものなのだ。

まぁぼっちという言葉があるんですけどね☆
おわり