さかの道

さかが駄文を書き連ねるようですよ。

認識

例えば、今自らが所有している衿持。大切にしているもの。それらは本当に価値有るものか。あるいは、本当に有るものか。これは、主観で分かる問題ではない。
ならば例えば第三者としての自分。彼から見た彼。それらの存在を証明することはまた可能か。世界に自分以外の人が存在しているという事実は、存在しているのか。



とある思想。自分が確かに存在しているとして、自分の周囲は確かな存在なのか。自らの意思で動いているのは世界で自分独りで、周囲全てはプログラミングさたプログラムそのものでしか無いとしたら。
また他の思想。自分にとっての「青」が、他人にとっての「赤」である。自分の目も、他人の目も決しておかしい訳ではない。ただごく自然のものとしてそこにある。
それらを証明する術は何処にも無い。有るのは孤独だけと知る。



「私には人の心が分からない」私にも、あなたの心が分からない。当然、誰に分かる筈もない。



例えば認識の反転した世界。案外目の前の人間は異世界人かも知れない。それは突飛な思想などではない。自分が異世界から来ていたところで何の不思議もないのだ。



例えば友人であると自信を持って言える相手。大切な人。その瞳が映している物を知る術はない。何を考えているのか、本当のところでは掴めない。これも主観で分かる問題ではない。


それでも、確かにその人を愛しいのだ。それだけで、きっと構わないだろう。